株式会社山陽レジン・会社案内

コンクリート修繕に魅入られた一人の青年

代表取締役社長 吉田法哉

はじまり

私、吉田法哉は昭和36年(1961年)2月10日岡山県玉野市で浄土真宗法親寺の次男として出生し、地元の小中学校を卒業の後、岡山県立玉野高等学校へ入学しました。

子供の頃より目立つのが好きな性分で、体育祭の応援団長や総リーダーを頼まれたり生徒会で文化委員長を務めたりしていました。 そうした学校での体験や当時の恩師の影響から小学校の教員になる事を夢みるようになり、必ず国公立の教育学部へ進学したいという希望を胸に、日夜受験勉強に取り組んでもいました。

挫折と転機

しかし残念ながら受験失敗し、 唯一親の薦めで受験していた私立龍谷大学は合格する事が出来ました。浪人覚悟でいたのですが、もう勉強は嫌だと思い進学しました。

ここからもう私の人生は変わり始めていたのかもしれません。思い切り遊びほうけ、昭和58年4年で卒業しました。 しかし一度は諦めた教員への夢を捨てきれず、仏教大学の通信教育で小学校の教員免許を取得し、採用試験に臨もうとしておりました。

その頃、ふとしたきっかけから山陽レジンでアルバイトをすることになりある現場に向かいました。 当時の私には与えられた仕事をこなすだけでしたが、現場で驚く事がありました。 全くの素人の私が10仕事しているのに、一緒に仕事している相方はかなり大柄な体格なのに、私の6割程しか仕事をしていないのです。 炎天下の仕事で手を抜きたくなる気持ちはわからなくは無いですが、不思議でなりませんでした。

決意と決断

私はなぜ?もっと頑張れば儲かるじゃないかという思いと、当時あった借入金を返済しようという思いから会社を始める覚悟を決めました。 そして昭和60年代表取締役に就任しました。23歳の終わりごろでした。

その後なんとか返済出来るだけの仕事を取り、現場と営業を行ったり来たりの毎日でした。就任当初社員は1名、年間の売上は2,000万でした。

それから1年、売上も3,000万ほどになったある時、またしても私の考えを変える大きな出来事がありました。 それまで建築の防水をしていましたが、瀬戸大橋の開通に伴い、土木のトンネル導水工事に入ったのです。工期も無く、私も毎日現場に入っていました。 10人から職員がいる大作業所で、毎日そこの所長と打ち合わせをしていくなか、素晴らしい人だと感銘し、土木工事の素晴らしさに魅せられたのです。 『これだ』と思いました。でも、どうしていいか分からないまま、しばらく時が過ぎました。土木と言っても重機に乗れるわけでもなく・・・

その当時、建築の方でしたが塗り床等で、エポキシを取り扱っておりました。そこでコンクリートの修繕をしてみようと思いつきました。 ちょうどその頃、今、我が社がここまで来られたのはそこのおかげだともいえるお客様、広成建設様とのお取引があり、JR(当時は国鉄)の修繕がしたいと考えました。 うまく試験施工を行うことができ、なんと並み居る大手塗料メーカーに混ざり指定工法を取得する事ができたのです。

しかし、指定工法をとったからと言って、すぐに施工など出来るわけもありません。 それから、毎日のように国鉄と広成建設様に日参する日が続きました。そして初めて、新幹線の補修をする日が訪れたのです。

多くの人に支えられ…

その当時、売上は6,000万程でした。そんな我が社に6,000万の工事が発注されることになりました。余りにリスクが高く当時いた3人の社員は全員反対でした。

『ここで後戻りは出来ない!』やるのだ。もう借り入れも返済し、少し体力がついてきたころでもあり、私は請負う覚悟を決めました。

しかし、結果は持ち出し工事でした。つまり、頂いた額より払った額のほうが多かったのです。私は愕然としました。 ですが、広成建設様の所長や土木課長から『あきらめるな、もう一度頑張ってみろ。』と言われ涙が出るほど感激したのは今でも忘れません。

それからです。どんどん工事を受注し、売り上げは1億から2億へ。岡山から姫路へ、福山へと営業を重ね、気がつくと5億の売上、 そしてそれに伴い利益もそこそこ出せるようになり、信用も徐々に深まっていきました。 現在ではJR西日本は広成建設様を中心にJR東海はJR東海建設様、名工建設様を中心に年商12億になりました。

多くの人に支えられ、ここまできました。

これからも精一杯、山陽レジンの発展のために、努力していく所存でありますので、より一層のご指導、ご鞭撻を宜しくお願い申し上げます。